2013年1月18日金曜日

【鈴木謙介】「〈ゲーム〉にエンディングは必要か」_4

。  というのも,〈ゲーム〉がそれ自体で終わらないとすれば,それを終わらせる手段は,おそらく次の二つのどちらかだからです。  一つは,〈ゲーム〉をプレイしている人達が飽きる。あるいは,時間的な限界がくること。  もう一つは,自分の中で納得のいく「終わり」の基準を作り,それを達成することです。  前者は,一般的な鬼ごっこやかくれんぼなどの遊び,あるいは「モンスターハンター」シリーズなんかが当てはまるでしょう。塾帰りの子供達がたむろしてPSPを突き合わせてミッションに出ている姿を見ていると,それが古典的な「子どものみちくさ遊び」の延長線上にあることがよく分かります。  彼らは帰宅しなければいけない時間いっぱいまで,画面の中の世界で〈ゲーム〉をプレイするわけです。逆にオンラインゲームの「廃人」達は,こうした限界をさまざまな理由で突破せざるを得なかった人達(あるいは,突破したかった人達)だといえそうです。  後者には,それぞれの基準で〈ゲーム〉をやり込む人たちが挙げられます。最近もで「怒首領蜂 大往生 デスレーベル」のクリア者のが掲載されていましたが,そこで語られる「終わり」に向けた徹底的な合理化の精神は,マックス?ヴェーバーが資本主義の精神として描いた宗教的エートスそのものだ,などといいたくなります。  トゥルーエンド達成,全CGコンプ,最速クリア,最弱クリアといった「自分基準」で〈ゲーム〉の終わりを作る人達は,まさに終わりなき〈ゲーム〉の世界を終わらせようとする点で,大澤氏の議論と似たような要素を持っているのだと思います。 延長される「終わり」  ただ昨今,maplestory RMT,大澤氏の言う説に必ずしも当てはまらない現象が見られることも事実です。たとえばPC向けアダルトゲームの世界では,よく「ファンディスク」や「スピンオフ」のような形で,すでに発表されたゲームの後日談やアナザーストーリーが発売されることがあります。  日本ファルコムの名作「」も,新シリーズ「」が発売されたことだしと思って,積んでた「3rd」をプレイしてみたら,全体的に前日談や後日談が続いていて(相変わらず面白いのですけど)ちょっと間延びしているところです。 「」  そのほか,同人誌やネットで発表されるショートストーリーなども含めれば,オタク業界としてはむしろ大澤氏のいう「終わり」を,本当の「終わり」にせず,どこかに自分だけの,IXA RMT,本当の「トゥルーエンド」があるんじゃないかと,いつまでも探し求めるような動きのほうが目立ちます
関連トピック記事:

0 件のコメント:

コメントを投稿